日本相撲協会

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過去の展示

七夕と相撲

展示期間 平成30年(2018)6月19日(火)~8月10日(金)

 七月七日は七夕です。七夕といえば、星を眺めたり、願い事を書いた短冊を竹に結んだりします。彦星と織姫のお話は有名です。その七夕と相撲の関わりとはなんでしょうか。
 平安時代の宮中行事だった相撲節(すまいのせち)は、初め七月七日に行われました。七月七日(七夕<しちせき>・笹)は、季節の節目に設けられた節句の一つで、一月七日(人日<じんじつ>・七草)、三月三日(上巳<じょうし>・桃)、五月五日(端午<たんご>・菖蒲)、九月九日(重陽<ちょうよう>・菊)とあわせて五節句といわれました。七月七日には、相撲によって、その年の収穫を占ったり、祈願したり、あるいは感謝したとされます。また、『日本書紀』に記載されている野見宿祢(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)の闘いも、七月七日となっています。こちらはのちに七月七日に決めたと思われますが、相撲は七月七日に行うものという当時の考えが伝わります。
 今回、七夕と縁のある、野見宿祢と當麻蹶速の闘いと相撲節の2つについて紹介いたします。七夕を機に、いにしえの相撲に思いをはせていただければ幸いです。

野見宿祢と當麻蹶速対戦の図
1 野見宿祢と當麻蹶速対戦の図
恵所 画
明治18年(1885)
 『日本書紀』垂仁天皇7年7月7日に、両者の闘いが記されている。無敵を誇っていた大和の當麻蹶速に対し、垂仁天皇が出雲の野見宿祢を召し出して取り組ませた。野見宿祢は當麻蹶速の腰骨を折って勝利した。この闘いは神話で、『古事記』にある建御雷神(たけみかずちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)の闘いとともに、相撲史における最初期の事項となっている。のちに闘いの様子や野見宿祢の姿が盛んに描かれているが、いずれも想像で、実態は『日本書紀』の記述以外には不明である。垂仁天皇に仕えた野見宿祢は、のちに埴輪を創始したとの話がある。また、相撲の神として祀られるようになった。
芳年武者无類
2 芳年武者无類 野見宿祢 當麻蹶速
月岡芳年 画
明治16年~19年(1883~1886)
 月岡芳年(1839~1892)は、歌川国芳(1798~1861)の弟子。月岡雪斎(?~1839)の名跡を継いで月岡を名乗る。血液を色鮮やかに描いた「血みどろ絵」を出版。歴史画や美人画、挿絵など幅広く活動した。
相撲節会図
3 相撲節会図
佐藤峯夕 模
文化10年(1813)か
 相撲節の会場を描いた絵。中央に向かい合う相撲人(すまいびと)、その廻りに相撲長(すまいのおさ 相撲人を監督する役。相撲人の髪や犢鼻褌<とうさぎ 当時の廻し>を直したり、取組がもつれた場合、双方を引き離したりする)、立合(たちあわせ 相撲人を立ち合わせる役で、左右から二人ずつ出る)がいる。中央奥の御簾の中で天皇が観戦し、左右それぞれ幕の外側に相撲人が控えている。門の近くにいる楽人は、自分の方の相撲人が勝つと、舞楽を披露した。また、余興として雑伎や散楽が演じられ、盛大に行われた。
春日西ノ廊下ツイ立ノ内相撲ノ図
4 春日西ノ廊下ツイ立ノ内相撲ノ図
鳥居清信(代数不詳)画
江戸時代
 春日大社の廊下には、競馬や舞楽、相撲を描いた衝立がある。20年に一度の造営の際に新しく作る。相撲は藤原基光(生没年不詳、平安時代の絵師)の絵巻が基になっているという。
 鳥居清信は、江戸時代中期の浮世絵師で5代いる。初代清信は鳥居派の祖。鳥居派は役者絵を得意として、江戸浮世絵の名門となった。
相撲推古伝
5 相撲推古伝 初編前
二代立川焉馬 著
歌川国安 画
天保元年(1830)
 『相撲推古伝』は、相撲節に出場した相撲人や各地の力自慢をまとめたもの。
 越前国(福井県)出身の佐伯氏長が相撲節に出場するため上京する途中、近江国(滋賀県)高島郡石橋村で大井子という美しい女性に出会った。惹かれた氏長は、頭上で桶を支える大井子の腕に触れた。大井子は片腕を下ろして、氏長の手を脇にはさんで歩きだした。氏長は手を抜こうとしたが、全く抜けずそのまま家まで連れて行かれた。氏長が相撲節に出ると知ると、大井子はここでの修業を勧めた。修業とは、大井子が作ったおにぎりを食べることだったが、あまりにも固く、初めの7日は食い割ることができなかった。次の7日で食い割れるようになり、さらに7日で食べられるようになった。こうして力をつけた氏長は、相撲節で活躍したという。
(『古今著聞集』所収)
 野見宿祢と當麻蹶速の闘いや相撲節に関する絵画、錦絵、版本、彫刻など82点の資料を展示いたします。

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